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Posted by のらんば長崎運営事務局  at 

2013年10月18日

なぜ、練習場が見つからないのか? 後編

過去にブログで何度か書いているが、改めて県のスポーツ施設について書いてみる。
県のスポーツ中核施設である県総の選定が長崎のスポーツに対する認識や状況を象徴している。

話は50年以上前に遡る。戦後、スポーツ中心施設の県総誘致に最も熱心だったのが長崎市だった。
長崎市は松山に陸上競技場・テニス・バレー・バスケットコート、プール、
更に平和公園側に体育館と子供遊園地を建設するという大計画を県に働きかけている。
計画は競技関係者からも大いに支持された。だが、県は財政難を理由に諌早設置に固執。
諌早の小野に作ろうとするが工費がかさみ、現在の場所に諌早競馬場と併設して県総が作られた。

ちなみに、長崎市の長崎国際体育館は重工が1億円を投じて建設し、県に寄贈したものだ。
この時に県は5000万円の負担を見送り、一部設備の整備をしなかった。
そして、まさに僅かな設備不備が理由で昭和44年の長崎国体で会場にならなかったと言う。

つまり、県総も国際体育館もスポーツの為とか、街作り以上に経費が重要視された格好だ。


さて、戦後に国土が荒廃した日本にとってスポーツ施設の充実は国体が担ってきたのだが、
長崎で国体開催へ動き出したのが昭和28年。その後、立候補を経て、長崎国体の開催が決定する。
この時、長崎県は県総ではなく、長崎市の松山にメインの陸上競技場を建設しようとしていた。
総合運動公園の考え方が非常に曖昧な対応だ。

今度はこれに長崎市が反対した。
①松山では手狭で観客をさばききれない。
②県の建設構想(競技場の設備)に問題点。
が主な理由だが、「長崎県スポーツ史(長崎新聞社)」に載っている当時の関係者の弁によると、
・以前、松山にあった長崎競輪を長崎市議会の希望に反して県が廃止させた事
・県総の松山建設にあたり、県側が市側に一切話し合いないまま計画を打診してきた事
という実際は県と市の・・正確には県議と市議レベルの遺恨があったようだ。

結果、長崎市は陸上競技場を矢上の現青果市場に作るように県に提案、
競技関係者もこれを支持するのであるが・・何故かこの計画に当時の県知事が激怒。
県は諫早の県総に陸上競技場を作るハラを固めた。
こうして完成するのが長崎県総合運動公園陸上競技場である。

流れを追う限り、財政や行政同士の対立などに振り回された感が強い。
どこの県でも事情は似たり寄ったりなのだろうが・・。
スポーツ文化が非常に低い扱いと言わざるを得ない。
「全国で最もスポーツ施設が貧弱な長崎県」
昭和44年長崎国体前の長崎スポーツ施設について長崎県スポーツ史はこう評している。
それから44年。長崎初のプロスポーツチームは深夜まで明日の練習場確保にも頭を痛め、
来年実施される国体競技の内、飛び込み、カヌー、クレー射撃は県外で開催される。

今週末から島原では全国社会人選手権が開催される。
V・ファーレンは島原でほとんど練習できなくなる。
来年の国体期間中は県内の全ての施設は使用できない。
約1ヵ月半・・公式戦はアウェー連戦などの非常手段がある。だが、練習は?

これが我々が住む長崎という街のスポーツの現状だ。

こういう県のスポーツ施設について書くと、「税金をスポーツにだけは投入出来ない」
「嫌なら使うな」「そういうのは専門家(行政)に任せておけば良い」という意見をよく貰う。
それも一つの意見だと思うが、「任せっぱなしだったから今の状況ではないか?」とも思う。
スポーツは県民・行政・競技者の皆がしっかり考えていかないと発展しないのだと思う。
  

Posted by 藤原 裕久(KLM)  at 17:00Comments(4)V・V長崎