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Posted by のらんば長崎運営事務局  at 

2015年07月08日

(後編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~僕が見たかったもの~

 7月4日、OB戦のヘルプメンバーは11:00にスタジアムに集合し、それぞれ運営に入る。OB達が次々と集まり、ロッカーの中は一気に賑やかになっていく。「スゲェなぁ」県総を見ながら川崎元気が呟き、スタメンをホワイトボードに書くと、「俺、スタメンで出たいです(笑)」と松橋君が言ってくる。入場時の入り口はキッズエスコートをするOBの子供たちと家族で一杯だ。

 V・ファーレン長崎の入場の時に流れるのは「龍馬伝」のテーマなのだが、このOB戦については、川田金太郎さんに頼んでJリーグのアンセムにしてもらった。龍馬伝が入場曲では無かった時代の選手も多いし、Jリーガーを目指しながら、辿り着けなかった選手たちを、一番スタンダードなJリーグのイメージで迎えたかったからだ。

 試合が始まりベンチで、少しだけ感慨に浸る。辛いことが多かった筈なのに、この時思い出すのは楽しかったことばかり・・。すぐ横で「藤原さん、俺いけるっすよ!」とアピールする選手がいる。ゼーゼー呼吸しながら「まだ大丈夫です、いけます」と言い張る選手がいる。原田武男はベンチに下がると素早く着替えてユースの選手として出場する・・何もかもが夢のように感じる。

 中村祐哉君が「左サイドで出たい」、税所君が「FWでも出たい」、杉山君が「まだまだいけます」、藤井君が「俺出ます」とピッチへ走る。・・気付けばピッチに12人いた。展開は0-1。「よし、もう1人入ろうか?いや、2人同時に。」。それから3分ごとに2人が入り、残り4分になった時、「ベンチ全員行こう!GKも!マネージャーも」。皆がベンチを出てからユースのベンチへ行き、子供たちに「ごめんね」と言いに行くと寺峰アカデミーダイレクターは笑って「いや、これが良いんですよ」と言ってくれた。

 試合が終わり、選手と握手やタッチを交わす。皆が口々に「楽しかった」と言ってくれる。写真撮影の時はユースもOBもOBの家族も全員一緒だ。雨で濡れているのにみんなが笑っている。OBと握手し、ハイタッチし・・ぼくらはようやく夢に区切りをつけた。その後、しばしライターに戻ってV・VAREN長崎vs.大宮アルディージャを取材し、試合後は翌日の感謝祭の準備に長崎市へ移動し・・ユニフォームやトロフィー、ポスター設営。

 翌日の感謝祭には、昔を知る人、昔を知りたい人が揃っている。
OB戦の準備と平行して集めてきたOBからのメッセージや写真が流れ・・OB同士が談笑している。少しでも昔を知ってもらえれば、好きになってもらえれば・・嬉しい。感謝最後に、近くでOB達と少し食事するので一緒にどうですか?と誘われたが、感謝祭の撤収準備もあるので遠慮する。その内にいつか・・だ。

 メモリアルOB戦は、OBとクラブのお陰で開催できたが、もっと自分が大きくなれていれば、もっと多くの選手や家族、色んなこともできたろうが、今の自分のほぼ全部を出し切ったOB戦で、宝物で、後悔はない。大変だったかと問われれば、筆舌に尽くしがたいほどだったと答える(笑)。でも、OB達の顔や感謝祭の雰囲気を見ていると・・「これが見たくてやったんだ」と思えた。やって良かったと心底思った。まだ自分はとても小さい存在で、辿り着きたいレベルへ達していないことも分かって、また上を目指す気持ちが強くなった。

 V・ファーレン長崎10周年メモリアルOB戦・・決して有名な選手ばかりじゃないけれど、自分たちにとっては世界一のOB戦。全部が終わって、僕が免罪符だと思って握り締めていたものは、本当は自分の夢だったのかもしれないと思った。誰かに許して欲しかったんじゃなく、単に大好きな物を見たかったんだ。 やっぱり・・V・ファーレン長崎は僕の人生をいつだって燃え立たせて、サッカーはいつも僕を幸せにしてくれる。

  

Posted by 藤原 裕久(KLM)  at 01:24Comments(2)V・V長崎

2015年07月07日

(前編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~なぜ、ぼくはOB戦を開催しようとおもったか?~

 オフシーズンに入る時はファンにとって憂鬱なものだ。あの選手が去る、この選手が引退する・・幸福に引退できる選手なんて一握りなのはわかっているが、そんなニュースに一喜一憂する。それはV・ファーレン長崎でも同様だ。だが、特にJリーグ昇格するまでは、殊更に悲しい別れが多かった。戦力外ということに選手は確かに傷つくが、それ以上にツライのは誠意を感じない時だと言う。

 笑って会いにきたのに、言葉を一言交わした瞬間に号泣した選手もいた。「悔しい、悔しい・・」睨みつけるような顔で、涙をポロポロこぼしながら何度も呟く選手もいた。抱き合って泣いた選手もいた。次の進路を語る最中に言葉を詰まらせる選手もいた。そうやって去って行く選手達に、僕が最初にかける言葉は決まっていた。
ごめんね、ちゃんと送り出せんで・・」。 

  今は思う、誰かが悪かったんじゃない。
誰もがクラブを存続させることに必死で、振り返ることも、立ち止まることもできなかっただけなのだと。非常でも進まねばならない時もあったのだと。それでも、謝ることしかできなかった当時の僕は彼らにいつも同じ約束をした。「いつか必ずOB戦を開催するから。その時に必ず呼ぶから。笑って長崎にもう一回来てもらうから・・」そう言わないと、自分の弱さに耐えられなかった。OB戦・・それが僕の免罪符になった。

 2010年のシーズン後に行った、退団選手たちが集まって自主的にゲームを体感し、や2011年にクラブが開催した「有明SC vs.国見FC」を見て、2014年に有光君、松橋君の引退ゲームの企画を練り、協力したことで、自分の目指すOB戦のイメージは徐々に出来ていった。
「10周年のOB戦をやりたい。実行委員会を作って、協賛金も集めて、全力で協力して、一銭もいらないから。
OB戦について考えることが増えた2014年の夏過ぎにある関係者に話をした。「やりましょうよ。実行委員会形式がやりやすいでしょうね。過去のことはあなたが一番詳しいから任せますよ。」やっとOB戦が動き出した。

 チームやクラブの負担にならずにOB戦を開催するために、最初は戸石の練習場で2月開催を予定したが、会場や日時は中々確定できず、5月開催やオフの開催も考えねばならなかった。4月にクラブから7月4日を10周年のメモリアルデーにしたいという話をもらい、開催場所が県総に決まった。実行委員会は、選手を集め、連絡を取り、小口協賛金を集め、OB戦当日の運営をボランティアとして手伝う・・その他色んな仕事が決る。基本にしたのはOB選手の旅費交通費だけでも全額負担するというもの。そして、アマチュアもプロもJリーグの経験ある無しも関係なく、満遍なく全ての年代の選手を集めること。そして、他クラブでプレー中の選手はシーズン中のために避ける事。

 実行委員会には知り合いの名前が一つでもあれば、OBの安心感は増すと思い、色んな人に入ってもらった。100名を超えるOBへの連絡は基本的にTeam V-istで行い、徐々に7/4の参加OBは決まっていった。タキシードユニフォームの話を聞いたのは5月だったと思う。6月からは時間との戦いで、100名を超えるOBに何度も連絡を取り、OB個々の事情に配慮してクラブとの仲介役を務めたりして、文字通り寝る間もない日々に突入した。また、7月5日の感謝祭の展示物の手配や分類、OB戦に参加できない選手へコメントは写真を出してくれるように各所にお願いしたりする。直前まで参加予定の選手が不参加になったり、急遽参加が決まった選手もいた。前者は梶原公君や福田涼君、後者は森本晃一郎君や佐藤陽介君。声をかけた全ての選手が来たがったことが嬉しかった。



正直、この頃はフラフラで人生史上最高にハードな生活だったと思う。

そして、OB戦はついに当日を迎えた。

(つづく)  

Posted by 藤原 裕久(KLM)  at 04:41Comments(0)V・V長崎