2010年12月31日
年末の挨拶
さて、今日で今年も終る訳だが・・
色々あったような、でも毎年の事だな的な感じだった年だ。
今年はこれまで通り、KLMとしてサイト運営をやり、ULTRAとして応援をやりつつ・・
フリーペーパー「プロビンチア」をグレードアップさせ「ViSta」を発行し、オフィシャルのMDPも書かさせてもらったりしてきた。そして、シーズン後には支援会を発展させる為、余計な誤解で周囲に迷惑をかけない為、ULTRAを卒団し、支援会の活動を進めてきた。
さすがに、これらをやるのは中々に時間のやりくりが大変でサイト運営にもメルマガにも、このブログにも支障が出たりした。
来年は少し統合したり、調整していこうと思う。
まず、ViStaの来季発行についてだが・・現時点では白紙に戻している。
ぶっちゃけるとViStaは年5号発行した訳だが、発行代だけで100万はいかないが・・ウン十万ちょいかかっている。ViStaをやる時に決めたのは、V・VAREN長崎のスポンサーや既にお金を出している所から二重取りするような真似はしないようにしようだ。その為、ViStaの広告主は、事情があってV・VAREN長崎にお金を出せない所や出さない所に絞って営業を行った。
来季の予算も現時点で20万近くは内諾を貰っている。だが、現在はそれ以上の営業活動をあえてストップしている。理由は、V・ファーレン長崎を応援する事にお金を出したいと思わせる事が出来るか・・新しい体制や方針の発表待ちである事が大きい。
多分、それを抜きにしてお願いすれば広告主は出してくれるとは思う。だが、ViStaと言う現時点で広告価値がまだ低い媒体に心意気で出資してくれた広告主が納得した上で、「お金を出したい、応援したい」と思ってもらってからでないとお願いしたくない。
それが昨年、広告を出してくれた方への義理だ。
これがビジネスや会社の事なら、そんな甘い事は言わない。
だが、ViStaは将来の市場作りの先行投資という面はあっても、根っこは物好きが勝手に始めたアンオフィシャルのフリーペーパーだ。ViStaスタッフで営利を得た人間は1人もいない。基本無料働きだ。無料働きの人間が作る媒体に、心意気で出資するスポンサー・・。つまり情だ。情で成り立つ媒体だからこそ、こういった義理を大事にしたい。
あとは単に俺が営業活動をやる時間がないって言うのもある。
もし、ViStaが本当に長崎の人に必要とされるならきっと動きがあるだろう。
MDPについては来季もやりたい気持ちはあるが、これはクラブが発行するか、誰に原稿を依頼するかという問題があるのでクラブの決定を待ちたい。
支援会に関しては色々やりたい事もあるし、やれる人材も揃いつつあると思う。だが、まだまだ足りない。もっともっと増えていけるように頑張りたい。
メルマガとKLMについては完全に個人でやってるので、これまで通り自分のペースでやる。KLMのコーナーは少しいじって減らそうかと考えている。シンプルにリニューアルな感じだ。
まぁ、そんな感じで来年もゴリゴリやっていこう。
来年もよろしく。
2010年12月30日
第2回V・V長崎支援会長崎支部会
12月27日に緊急の第2回V・ファーレン長崎支援会長崎支部会を開催。
18:00に市民会館へ行き、準備作業開始。
「支援会メーリングリスト登録のお願い」やら「支援会について」や「第1回支援会議事録要旨」、本日のレジメを各席に配布したり、テーブルをミーティングしやすい位置へ移動する。
入り口に本間宝石さんから提供してもらった「募金箱」設置。
支援会はクラブから一切の資金援助などを受けず活動する事を目指している。しかし、会議室を借りるのも全て無料とはいかない。そこで前回、参加者に少しで良いから「気持ち」を入れてもらえれば予算が出来、会議室を借りやすい環境になり、ひいては活動しやすくなると説明した。
無論、会計担当も任命しキッチリと伝票も作って会計処理している。
必ず活かす使い方をしていきたいし、これから先の運営資金を捻出する方法も色々考えていきたい。
今回の会はクラブから菊次専務が参加して意見交換が行われた。
無論、公式のサポーターズカンファレンス等ではないので説明や回答は専務の任意だし、説明出来る範囲も現状で差しさわりのない範囲。その中でほぼ今出来うる最大限の説明はしてもらえたと思う。
参加者全員が満足とはいかなかったかもしれないが、多くの人は気持ちの整理がつけられたのではないだろうか?実際、今回の会を緊急で開催した目的はそこだし、こういった話し合いの場が無かった事が一番の問題だったと思うから。
基本、トラブルは意思疎通や対話が不十分だから生まれるものだ。
実は、この日の会では前半部分を意見交換にあて、後半は具体的な支援方法の話をしたいと考えていた。しかし、やはり6年・・話し合いが殆どなかった為か意見交換は非常に活発で予定時間を大きく越えた。そこで、具体的な話を今回で行う事を諦め、徹底的に伝えたい事を伝えてもらう事にした。
全てに誠実に答えてくれた専務には感謝したい。
また、会が終る時に「次回からは具体的な支援の話をしましょう」との提案に応じてくれた参加者にも感謝したい。
内容については近日中に議事録を作成し、次回の会議で要旨を配布、議事録公開をしたい。
さて、次回の支援会長崎市市区会は
長崎市の長崎市役所第3・第4会議室(定員80名)で
2011年1月11日(火) 18:30開場 19:00開始 21:00閉会。
次回は支援に向けた具体的な方法を話し合う予定だ。
特に広報・集客アイデアや実践方法を進めたい。
出来れば参加者がそれぞれアイデアをドンドン持ち寄って欲しいし、1人で複数でもOK。
支部会の中にそれぞれの企画の作業部会を作って進めてもOK。
また、支援会は参加自由の途中入場、途中退出可。
それをハッキリさせる為に毎回、会議の時は入り口のドアを閉めない。
是非、来月の11日にみんなと遭いたい。
2010年12月26日
スパイクを脱ぐ男③ 久留貴昭
82年組は希望だった。
彼らがいなければV・V長崎は生まれなかったかもしれない。彼らが高校3年の時、高校サッカー界の中心には三冠の国見高校があり、激戦を繰り広げた清水商、鹿実があった。その存在が小嶺社長にV・ファーレン創設の背中を押させた事は・・クラブ発足にあわせて82年組が大学卒業を迎えた事からも判ると思う。
05年には渉、堤、栄二、堀川、中村(浩)、税所、松浦。
06年には大空、小田、裕哉、そして久留貴昭。
07年には福嶋が08年には大塚と吉本淳、去年は陽介。多い時は10人も揃っていた。
その大半は主力選手であり、同時に若手であり、Jに行く時のエース達。誰もそう信じて疑う事はなく・・。
たーは来てすぐ守備の要となった。
体の強さならもっと強い奴は幾らでもいた。足が早い訳でも、堀川のような跳躍力もない。たーが選んだのは誰にも出来るけど誰にも真似できない事。
多分、長崎のCBでゲーム中に1番首を振っていたのはたーだと思う。首を振って周囲を確認して徹底的に備えた。何度も何度も首を振っていた。
ミスを恐れず声を上げ続けた。声を出し鼓舞すれば責任が生まれる。責任が生まれればミスは目立つ。たーはそれを恐れる事をしなかった。
ここ1番で相手とぶつかる事を恐れなかった。DFとして体が大きくない彼が突進してくる相手選手を体を張って止める事はどれほど怖い事だったろう。06年には左肘を脱臼し、翌年は肩を負傷した。09年には足の親指を骨折。誰にも出来るけど誰にも真似できない事を続け来た代償はしっかり体に残っていた。
2010年、たーの長崎での暮らしは5年目を迎えたが、気付けば82年組はほとんど居なくなっていた。戦術も守り方も、守備に対する考え方も新しくなった長崎。それはたーとは合わない物だった。出場機会は減り、ベンチ入りする事すら珍しくなる。かつて主将も務めた彼にとってそれは本当にツライ事だったろう。
それでもたーはたーだった。
練習試合で何度も首を振り、練習でも声を上げ、プライベートでも若い選手を鼓舞し、ベテランを支える。
12月2日の夜・・うつむく北川や空騒ぎの後座り込む宮尾に声をかけていたのはたーだった。竹にジョークを飛ばし、ずっとコンビを組んでいた加藤をちゃかし・・
「Jリーガーになりたかった。大学出て佐川(現SAGAWA)に入ったけど、上を、Jを目指したくて、税所に聞いて長崎に来て・・。結局Jリーガーになれませんでした。でも、俺は長崎以外に行く気も無いし、これからは教員を目指します。」
たーとSenji君は去年ある約束を交わしていた。
その約束をSenji君は懸命に果たそうと1年間必死だった。俺は約束の大きな力になれなかった。
「Senji君はね、この1年約束を果たす為に必死にやってたとさね。でも俺が意固地やけんね、力になりきれん時のあってね・・Senji君は約束は破ってないとさ。俺が変にこだわっただけで・・ホントごめんな。そこだけは判ってやって」
たーはそれを聞くと全部判っているから大丈夫という顔で
「果たせなかったとしたら俺の方です。1年前にほとんど八つ当たりみたいな事言ったのに、それでもSenjiさんは約束を交わしてくれた。そして、その約束が今年、糸みたいに細くなって切れそうになる気持ちをギリギリで切らせなかった・・その約束があったから俺は頑張れたと思います。」
Senji君の娘、美桜ちゃんはたーを本当に慕っている。
彼女にとってたーはずっとヒーローだった。
そして、ヒーローはヒーローらしく最後まで真っ正直にプレイして、堂々と舞台から降りる。次は教壇に立ってもっと多くの子供のヒーローになる為に。
2010年12月24日
スパイクを脱ぐ男② 阿部博一
V・V長崎でずっとベンチ外だった選手の昔を知る人が、その選手をこう評してるのを聞いた事がある。「レベルが違う。こっちの才能が1なら5とか6。」
その選手の技術やセンスは当時のチームの中で下から数えた方が早く、結局公式戦に出る事なく退団した。
トップを目指す世界はそれほどレベルが高い。
阿部博一もそんな世界の中で才能豊かだった訳ではない。フィジカルもスピードも鍛錬で培われた物だ。失礼な話だが、初めて彼を見た頃
「意識も高い好選手。でも才能という意味では上でやるには厳しいかな。」
と偉そうに思った。その後、彼は沢山の人を魅了し、俺もとても頼りにしたが印象が変わる事はなかった。それでも阿部博一は伸び続け成長する。
3月のアウェイのジェフリザ戦。同点のロスタイム、FKからの混戦に突進した。ゴールはアリだったが、誰もが今も「阿部の得点!」と口を揃える。
5月のアウェイのSony仙台戦。6戦未勝利で連敗中の長崎。彼の投入は反撃ムードを加速させ、逆転を呼び込んだ。
6月のアウェイのアルテ高崎戦。強烈な暑さの消耗戦。疲れきった高崎の選手はそのスピードを止める事が出来なかった。
9月の天皇杯、アウェイのFマリノス戦。地力の差を見せ付けられた後半に、最も皆を湧かせたのはJ1相手に勝負を仕掛け続ける背番号25。
そして、11月のアウェイの佐川印刷戦。0-3から投入され、8分で3点の中心になる離れ業「阿部の八分」をやってのけた。
ジェフリザ戦、「頼むよ、阿部ちゃん」と声をかけると顔を挙げ頷いた。Sony仙台戦、不可解なPKで逆転された時、誰よりも早く「2点取って逆転!」と口にした。佐川印刷戦、Senji君が「頼むよ、阿部ちゃん。俺の嫁さんに得点する所見せてやってー」と叫ぶと手を上げ頷いた。
今期の出場時間は全ての公式戦で300分。
300分で阿部博一は俺達の期待に応えてくれた。
俺の印象は覆る。
彼は「努力」と「諦めない心」というの2つの才能を持っていた。
12月2日の夜・・彼は言った。
「もうサッカーはやりません。長崎で勝負して駄目なら諦めるという気持ちで来ていたから。他の分野に進んで、そこで皆にまた名前を知られるようになりたいです。」
頑固で、負けず嫌いだから、もう見たくもない位に悔しくてたまらないから・・フットボールから距離を置くんだろう。
年末にJRを乗り継いで東京へ戻る様子がブログに綴られた。彼らしい色んな所に寄りながらの旅。それは自分を辿る旅なんじゃないかなと思った。
東京を出て、北海道へ行き、長崎へ来た。今までフットボールを追いかけるのに一生懸命で、素通りしてしまった物や行けなかった所を辿っているんだと思う。
フットボーラー阿部博一から、阿部博一に戻る旅。
東京に近づくにつれ、彼は旅を続けたい衝動に駆られたと言う。そこは、フットボーラーの内に行きたい所か、まだフットボーラーでいたかったと言う事か・・。
東京に着いた時の記述は
「東京は相変わらず何でもあるな。
ただ俺が諫早から降りて来た駅で最もくだらない。」
とても優秀で学もあり、人間性も素晴らしい彼だ。どの世界でも愛され評価され、その気になれば何でも出来るに違いない・・東京という町に何でもあるように。
でも、その阿部ちゃんが”何でも”を投げ打ってもやりたかった事は「上を目指すフットボール」だったんだと思う。
小さく、何もない諫早の駅。でも、そこに本当に欲しかった物があった筈だった。
今になって気付いた事がある。
「俺は自分で思う以上に阿部博一が大好きだったんだ」
美由紀さんがいつも熱烈に応援していたから、勢いに押されたのか・・俺の彼への見立てはいつも大事な事を見落とす。
そう、俺達はみんな、フットボーラー阿部博一が大好きだった。
走り続けたフットボーラーはその先に何を見たのだろう?
フットボーラー阿部博一はもう走らない。
2010年12月22日
スパイクを脱ぐ男① 川崎元気
和樹さんはいつもグランドで試合の写真を撮っている。
プロのマスコミではないのでいつも和樹さんは遠慮がちに写真を撮る。その和樹さんから意外な話を聞いた事がある。
集合写真を撮る時・・選手達はいつもオフィシャルカメラマンの山頭さんへ目線を送る。稀に山頭さんがいない時、選手達の目線はそれぞれ別な方向になる。アウェイのマスコミ、顔見知りのカメラマン・・そん中で、必ずどの試合でも目線をサポーターの和樹さんのカメラに送る選手が2名いると言う。1人が有光亮太。
そしてもう1人が川崎元気。
ベテランと呼ばれる年齢の元気だが結構露骨に顔に機嫌を出す。
意に沿わぬ途中交代や敗戦の時は顕著だ。
昔、沖縄で琉球に負けた時、途中交代に露骨に不満を現した元気と競技場の外でバッタリ出くわした。
「お疲れさん」声をかけると少しだけ頭を下げて「あぁ、どうも」。
まだ不満顔だった。
立ち去ろうとした時に元気は振り返り、「今日で何位になりました?」
多分、順位をその時に知りたかった訳じゃない。もしかしたら知っていたかもしれない。
自分が不満顔で対応した事が気になったのかもしれない。
最後の試合、スタンドから聴こえる歌はずっと耳に届いていたそうだ。
この時点で川崎元気はこの試合が自分のラストゲームになると覚悟をしていたと言う。
解雇ではない。退団ではない。
戦う気持ちも衰えてはいない。
だが家族の生活や将来を考えると引退の2文字が浮かんだと言う。
長崎でも順風満帆だった訳ではない。
監督とも衝突したし、自分の出来に我慢出来ない時もあった。
現代に求められるタイプの選手ではない。
プレーエリアも運動量も極限られている。
本来なら佐野フットボールの対極に位置するタイプだ。
それでも来期も必要な力と見込んだ。
その本質は採点では図りきれなかった。現代の基準に納まりきれないからだ。
80分消えて10分で決定的なドラマを作る。
軽いプレイでボールを奪われた5分後に信じられないロングパスを通してみせる。
(もしかするとフットボールって簡単な競技なのかもしれない)
それ位に余りにシンプルで、当然の事のようにボールは通った。
だが、現代の採点基準では滅多に5.5以上はつくタイプではない。
それでも俺は大好きだった。
80年代のフットボールが1番楽しかった時代の影を見せてくれた。
「昇格した事のなかった俺がここで昇格した」
ホームロック戦での劇的な決勝ゴールの話題をすると
「何か残せたかなって思いますよ。」
引退を決め
「もう俺は選手としては長崎に何も残せない。若い奴らがやらないとだし、やってくれますよ。あいつらが背負っていかないと。」
「この3年間、応援してもらって本当に嬉しかった。長崎ってチームに悪い感じは何もないですよ、何もない。」
何ももう残せない・・そんな言葉と裏腹に来期の長崎の為に選手に関する情報をクラブに残す。抱えきれない記憶を、俺に、俺の街に、俺のクラブに刻みつけ、川崎元気はV・VARENを、長崎の街を去り郷里で指導者になる。
個人的にある計画がある。
2年以内にV・ファーレン長崎に所属し、引退した全ての選手達を集めて引退試合を行ってやりたい。
その時に川崎元気はピッチでもう1度魔法を見せてくれるだろうか?
2010年12月21日
ここ2日の出来事
ここ2日ほどの出来事を書いてみようと思うのだ。
さて、ここ2ヶ月ほど容赦なく用事があり続けた訳だが、目の前にタイムリミットが迫っているという案件が一段落ついた。なので、日曜は脳を休ませるため釣りへ行く!!
「男ドあほうフィッシング~~♪ クリスマス!」
前回、釣りに出た時は浦上川でヒラメを釣ったのだが、周囲に通行人がいる為に釣りっぱな状態で写真を撮ろうとしたら逃げられてしまい、後に幾ら皆にその事を話しても
「嘘つきやろーだ!」、「狼おっさん!」と罵られ、虐げられた。・・今回はリベンジだ。
とりあえず、水辺の森へ行く。準備をしていると亜由美や和樹さん着。
釣り開始。すると・・美桜ちゃんと美文が着。福島家合流。
目の前に海上保安庁の船が停泊中。皆が
「愛する者を守るために今日も頑張るつはもの達に感謝の念が絶えませんね」と正座。
また、美文のあまりの愛くるしさに
「もし、美文に妹が出来たら、俺は何の関係もないのだけれど、俺の一字を取って「美裕(みひろ)」にしてはどうだろう?」と提案するもあえなく却下される。
だが、自分の名前を他人の子供に付けたくなった気持ちはもう止まらない。
よし!選手に子供が生まれる度に提案しよう!
アリの所に次に子供が出来て、男の子なら「裕凱(ひろが)」とかが良いと思う。
釣りをしながら美桜ちゃんと「悪魔の実を食べるとしたらどれを食べたい?」とか「クリスマスプレゼント、何でも貰えるなら何が欲しい?」といったおよそ、厄年の男の会話とは思えない話題で盛り上がる。
途中で雄二さんと聖子さんが着。古巣であり、店と同じ名前の「ハチクラFC」が県3部2位以内を確定し来期の県2部入りを達成したそうだ。一方釣りは和樹さんが稚鯛を釣ったのみでアタリもないので神の島へ移動。
神の島でイキナリ亜由美や和樹さんがアラカブをゲット。その後、senji君もアラカブゲット。俺と美由紀さんはボウズ・・。その後、はち蔵へ行く。釣ったアラカブはから揚げにされ、食事しながら美文と遊ぶ。あとは応援やら何やらの話をして日曜日終了。
月曜は夕方に大山支部長と共にV・ファーレン長崎の菊次専務に12月14日の支援会議事録を提出。更に要望に上がっていた件について協議。大山さんの素晴らしいフォローで緊急の支援会開催が決定。
12月27日(月)19:00~21:00 長崎市市民会館第五会議室
菊次専務参加で急遽説明会を開催。現状で説明出きる範囲で直接の質疑応答可能。途中入場、途中退席自由。誰でも参加可能。ただし他の参加者の迷惑になると判断した場合は退席等をお願いする事とする。
クラブフロントがほぼ揃ってのクラブのオフィシャルのサポーターカンファレンスは来月末くらいになると思われる。更に緊急と言う事もあり、今回の会は一応、支援会の緊急集会という形となる。
前回の支援会に参加された方は判るだろうが、前回の参加者の意見として多かれ少なかれフロントに対する不信感があり、
簡単に気持ちを切り替えて応援をしにくい、最低限だけの説明もないままでは色んな協力にもモチベーションが維持できない・・っと言う事が非常に多かった。
皆が互いに楽しんで協力したいと思いながら、クラブの方向が見えず戸惑っているという物が支配的で、このままでは来期の協力の話し合いも中々進まないと感じた。
だからこその緊急の支援会という形となった。
「長崎市でばかり開催」という意見もあるかもしれないが、支援会は現在4地区に分かれて活動しているが、現時点での実動は長崎市支部のみである。
更に俺自身も長崎市在住。勿論、他地区の支部も活動があれば可能な限り参加するが、実動の状態を考えると長崎市でやるのが一番融通が利いてフットワークが軽いという事情を理解してもらいたい。
そんな感じで2日を振り返った。
2010年12月16日
12月14日の支援会会議
さて、14日の火曜日の19:00から支援会の支部会が開かれた。
当日はフロントからも参加予定だったが急用でキャンセルとなり、支部長も所用でどうしても到着がギリギリになると言う。早めに会場へ行き設営開始。
机を話しやすいように位置替え。
部屋のサイドに置いた机には自由に閲覧してもらう為に、過去に支援会内で行った「ホームタウン情報収集アンケート集計・分析結果」とテスト的に行った「アウェイ観戦者アンケート集計結果」、それに前日に何とか形になった「一般観戦者アンケート集計のみ結果」の資料を配置。時間が近づくにつれてボツボツ人が集まり始める。
19:00から会開始。
参加者は合計で途中合流の会長や支部長入れて29名。普段スタジアムで見る顔、一緒に応援していた顔、ボランティア、サッカー関係者、協賛企業など・・かなり多彩。
一応、会議のスケジュールやら何やら用意していたが、フロントの参加が無くなったので配布中止。フロントに現状を説明出来る範囲で説明してもらおうと思ったが・・。
なので、俺の口から差し障りのない部分で話せる範囲で原状を参加者に説明。
その後、意見交換開始。
現状に関してとにかく多くの人が危機感と不安を感じている。クラブの標榜する事と解雇を含むクラブの行動のギャップ・・そして説明の無さにクラブとの信頼関係が大きく揺らいでいる。サポーター、協賛企業、ボランティア・・それぞれがそれぞれの立場でクラブとの関係に「臨界点」を迎えている。
「チラシ配布やポスター貼り、イベント開催・・協力したい気持ちはある。だが、今のクラブの姿勢では協力するモチベーションが湧かない。」
この言葉が色んな気持ちを代弁していた。
別に支援会が率先して何かをやろうと言うつもりはない。
長崎を応援する人にアイデアも出すし、「こんなのどうでしょう」と提案もするが、応援する人、V・VARENで何かをやりたい人が提案する事を遡上に乗せる・・。
個人個人では中々出来ない事やら企画やらアイデアがある。だが支援会という集団に提案する事で可能になる事もあるんじゃないだろうか?
支援会は単なる箱。
その箱の中に個人のアイデア、意見を入れて、箱の中にいる人たちがそれぞれ独自に、自由に協力して意見を企画に変える。もちろん、賛同を得られない意見もあるだろう。だがその企画がクラブに提言されたり、実践されたりもする・・そんな入れ物だ。
個人的にはそう思っている。
それはフロントの仕事。そういう人もいるだろう。
建前論では確かにそうだ。だが、そうやって6年たってフロントはその仕事まで手が回っているだろうか?このまま「ダメだ、ダメだ」と言ってるだけで状況は必ず良くなるんだろうか?
クラブ経営は会社経営の中でも恐ろしく難度が高い。
世界中のクラブでずっと安定経営の黒字チームは存在しない。現在、比較的優良経営とされるドイツのチームでも実際は一部トップチームがメディア展開など成功で潤ってるだけで半数以上が苦しい経営だ。J2に相当する2部はもっとひどい。収支トントンで何とかやってますが優良とされるレベルだ。日本のJクラブで黒字経営は浦和ぐらいで。それも浦和はここ5年程度だけでみた場合であり、過去の累積を考えると大赤字だ。
そういう難度の高いクラブ経営を少しでも軽減させようと、Jの大半のクラブでは支援会がやっているような活動がファン主導・共同で行われている。
やれる事をやってやってみようと思う。
とりあえず、今回の会でハッキリとしたのが余りにクラブとファンの対話が少ない事だ。
対話が無いからファンが求める物とクラブが提供する物にズレが生まれる。ズレがあるから不信が生まれる。不信があるから誤解が生まれる。対話をした結果、「ダメだ」と思ったのなら互いに別々の道を進めば良い。だが、対話も無しに別々の道に進むのは余りに非合理的だ。
近日中に議事録を作成して支部長と共にクラブに提出に行く。その場で会であがった内容や対話不足の件をハッキリ伝え、至急の対処をお願いする予定だ。
まず、それが無ければ何も始められれない。それ位に今、色んな物が揺らいでいる。
次回の支援会は1月11日(火)を予定。
第1会は支援会の説明や初顔合わせもあって、具体的な行動についての話まで至らなかったが次回はしっかり「これやります」と決められると思う。
まずは、クラブに対してしっかりと年内に対処をしてもらえるようにする・・それが第一歩だ。
2010年12月11日
V・ファーレン長崎支援会って
V・ファーレン長崎支援会についてちょっと説明を・・
以下は関係者から聞いた創設に関わる伝聞。
2005年予算支援で後援会が発足する訳だが、足りないのは人手も同様。そこで意見交換やらアイデア提供やらボランティアの人的・組織支援をする為に支援会が発足。とは言え、個人のボランティア協力が中心で会としては実態が伴わず休眠状態。
JFL昇格を機に改革の一環としてクラブは支援会を復活させ、そこにこれまで協力してくれているボランティアの有志にも入ってもらう新支援会構想というものを模索。その際に、サッカー関係者以外にも幅広い意見を聞こうとメンバー募集の告知をサイトに載せた。
その時のオフィシャルのニュースのキャッシュがこちら。
http://news.v-varen.com/?eid=1124818
これに手を挙げたのが俺とうえきさん(だけ!)
ちなみに支援会の出席者は県協会関係者、郡市協会関係者、運営ボランティアグループ各リーダー、各種指導者などなど・・。
その後、2月に1回~2回の割合で平日夜に開催される会議を行い色々と話あってきた。勘違いしてもらっては困るのだが、新支援会は何の権限も強制力もない。勿論、経営や契約といった金銭面には一切タッチしないし関わらない。
その後、支援会自体も改革が必要になり第3次支援会とでもいう形へ入ろうというのが今の状態。
ここまででお判りの通り、支援会は誰かがポッっと作ったものでも何でもない。
第3次支援会ではそれまでのクラブお抱え要素の強かった団体から脱却して、外部諮問・協力機関となるべく準備を進めている。それはクラブの援助から出来るだけ脱して、物言える団体となる為だし、同時にクラブに負担をかけずに活動していく為だ。
イメージ的にはベガルタの市民後援会が一番近い・・と言えば少しJに詳しい人なら理解出来るだろう。
まだまだどうなるかは判らない。だが、色々頑張っていきたい。
とりあえず12月14日の19:00から長崎市市民会館で話し合いがあります。
どなたでも自由参加。是非おいでくださいな。
2010年12月06日
2010 V・VAREN長崎ほんとうの最終節のこと
解雇となった選手を中心に何かをしたい・・そんな話を聞いたのは12月2日の晩だった。
それは結局選手有志主催の物となった。
色んな所から次々に連絡が入ったのが前日の5日。
「1人でも多くの人に来てもらいたい。」
「これが俺達の本当の”結束”です。」
その声に応えたくて・・前日から色々仲間みんなで準備を開始した。会社に連絡して6日の昼から休みももらった。前日の準備中に力を貸してくれた方から聞いた言葉、
「加藤君は生まれたばかりの娘をキッズエスコートに出したいって言ってたんですよ、来年くらいにはギリギリ出せるかなって」
その言葉を聞いた瞬間にキッズエスコートをやる事を決めた。
翌日、昼に1番にかきどまり着。
選手との約束通り、可能な限り張れるダンマクを張る。
時間が経つ毎に選手が観客が集まりだす。
書いたシーツダンマクは「みんなサンクスマッチ 愛こそ全て」。
キッズエスコートをすべく会場の子供に声をかけて回る。同時に会場の観客を全てカウンターで数える。水増しはしない。
武男さん所も由紀彦の所も子供がキッズエスコート参加。加藤もとても小さなリンちゃんをとても大事そうに抱いて笑って並ぶ。
いつもスタジアムでDJをやっている川田金太郎さんも音響設備一式持参で全面協力。
長崎新聞もNIBも全面参加。紅葉に誘われた通りすがりの人も・・みんないる。
多くの選手が参加して行われたゲームだ。
選手が本当に楽しそうにプレイし、観衆が本当に楽しそうに観ていた。
阿部ちゃんと伝の道都大コンビの対決があったと思えば、佐藤陽介がGKをやり梶原は動かない主審やったり・・。試合途中には偶然に銀行業務で立ち寄ったという設定の神様八戸が表れて、武男さんにうながされ、その場で革靴のままプレイ。挙句にゴールを決めて去っていく神様ぶり。宮尾も武男も阿部も久留も洋も全員ゴールを決めると観客に向って走って・・。
試合は5-5の引き分けで終った。その後は観客参加の10分ゲーム。
元気のパスに反応だけしてエア得点を決めパフォーマンスだけ頑張った。明日は筋肉痛で死ぬだろう^^。
その後、皆で写真を撮って竹村のサプライズ誕生日を祝った。
その後は退団選手が挨拶。ラストの武男はマイクを握ると何も言えず・・
「こんなに応援してもらって・・感謝の言葉しかありません。ほんとうに・・ありとうございました」
と言うのが精一杯だった。
そうしてゲームは終ったが・・名残惜しいのか選手も観客もずっと残って話をしていた。
金太郎さんが最後に「私はこれまで色んなV・ファーレンのイベントをやってきたが、こんなにグダグダで、こんなに素晴らしいイベントは初めてです」と言った。普段、ボランティアをやっている男性は「こんな終り方しかないんですかね」と涙声で語った。
ピッチの外の色んな事情があって書けない事が多い。
それがとても残念だ。
ただ、このチームの一体感は周囲が思っている以上の物だった。そして、誰もこんな終わりは望んでいなかった事は記しておく。
最終的にカウントした人の総数は192。
それを多いと取るか少ないと取るかは人それぞれだ。
だが、この192人は皆が思ったはずだ。今日のこの光景が多分、クラブがよく言うサッカー文化の1歩であり、地域密着の形であり、6年に渡って拙いながらも積み上げてきた歴史であり・・目指してきたものだと。
Jリーグの応援をやりたければ、熊本でも福岡でも佐賀でもJRに乗って行けば出来る。
俺がやりたいのは「俺の街のチームでJリーグに行く事」だ。
Jリーグへ行く事がやりたい事じゃない。
俺達の街のチーム抜きにはきっと何も生まれない。
予定時間を大幅にオーバーして試合は終わった。
その後、はち蔵へ行き皆でこの日の動画や写真を見て過ごした。
そんな平日の月曜日。
2010年12月03日
覚悟のススメ
さて、昨日書いた通り・・変革は必要だと思っている。
気になるのは唯一・・人には感情があるという事だ。
考え方も思考も、目指す物もそれぞれだ。
変革を行うのならば、そこには当然に配慮と覚悟がいる。
V・VAREN長崎とは何だろう。
V・VAREN長崎は企業名だろうか?
誰のチームで、何を目指して、何をしたいのか?
改革は始まった。
振るわれた改革で15名の選手が退団し、去るフロントもいる。
振るった改革の正しさの判断は未来に委ねる。
振るい方に覚悟はあっただろうか?
選手が現役を、
もっとも愛するフットボールを、
断念しなきゃならなくなる改革を断行する覚悟は。
それを断行して返り血を正面から浴びる覚悟はあったか?
改革の第一歩はそこから始まる。
もし、その覚悟が無ければクラブは大きな物を失う。
今を愛せない者は未来も愛せない。
今に微笑まない者に未来は微笑まない。
踏み出された一歩はどこへ向っていくのか・・それを見ていきたい。
ありがとう、お疲れ様、ごめんなさい。
ありがとう。
今日も1日が始まる。
2010年12月02日
15名退団の報に寄せて
彼は俺に言った。
「フロントもサポーターも俺ら選手も皆が変わらなきゃいけないようになったんだと思う。いつまでも同じでは上には行けない。これから、みんなが変わって行かなきゃならんと思うんですよ。上に行きたいのなら、変わっていくべき時なんだと思う。」
個人的にはこれに関して心情的に何もないと言えば嘘になる。
だが、彼の言う事が正論でありその通りだ。
さすがに15人というのは中々にアレではあるが、05年は20名くらい退団したし、エースが抜けるのも何度も経験した。原田武男に対して特別な思い入れはあるし、強く思う事はあるが、それは俺の個人的な事でチームの判断が”悪”なんて思わない。
これからも退団騒ぎはあったし、これから先もずっとある。
その辺に関しては馴れている。だが、痛みを耐えていても痛いものは痛かったりする訳ではあるが、それもひっくるめてフットボールクラブを応援するという事だ。
(このままじゃ駄目だ)
そう誰もが思った。変わる事が求められている。
変わると言うのはこういう事だ。
楽しい変革、楽な改革なんてありはしない。
その覚悟もないまま「変わらなきゃ」なんて言っても、それは改革ゴッコだ。
クラブは変わろうと一歩を踏み出した。
それが正しい変化がどうかは未来が決める。今じゃない。
そして、その変化は当然、フロント自身にも行われるはずだ。
クラブが責任を持って、来期以降のチームを作り出す判断をした。
あとは結果で考えてやれば良い。
怒るのも褒めるのもその時にすれば良い事だ。
ただ、去っていく選手には
本当にお疲れ様!
と言いたい。
彼らが退団する事に言いようのないショックを受ける・・それ位に好きな選手・・そんな彼らと遭えた事、そんな彼らが長崎のチームに居た事に本当に幸せを感じる。
俺を幸せにしてくれて、ありがとう。
特に原田武男と竹村栄哉の2人には言いようがない程の気持ちがある。
俺をとびきり幸せにしてくれて、ありがとう!
彼らの今後について希望する事は多々あるが・・まずは彼ら自身がどうしたいのかを尊重したい。
正直、これだけ選手が退団したり、原田武男のいないV・VAREN長崎が想像出来なくて、先を中々、考える事は出来ないが・・今、俺の目の前には最終節で回収した観戦者アンケートが数百枚ある。来期の運営の効率化や合理化をすすめ、地域密着を言葉じゃなくて実践する為のアンケート・・。
だから、俺はそれを集計する。ただ、ただ、集計しまくる。
それが今、俺に出来る事だから。
俺がクラブの側にいれば・・
今まで去って行った71人の選手、そして今日の15人の選手・・彼らを語り継いでいける。
だから・・俺は彼ら86人の気持ちと一緒にJリーグを目指す