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Posted by のらんば長崎運営事務局  at 

2010年12月26日

スパイクを脱ぐ男③ 久留貴昭

82年組は希望だった。
彼らがいなければV・V長崎は生まれなかったかもしれない。彼らが高校3年の時、高校サッカー界の中心には三冠の国見高校があり、激戦を繰り広げた清水商、鹿実があった。その存在が小嶺社長にV・ファーレン創設の背中を押させた事は・・クラブ発足にあわせて82年組が大学卒業を迎えた事からも判ると思う。



05年には渉、堤、栄二、堀川、中村(浩)、税所、松浦。
06年には大空、小田、裕哉、そして久留貴昭
07年には福嶋が08年には大塚と吉本淳、去年は陽介。多い時は10人も揃っていた。
その大半は主力選手であり、同時に若手であり、Jに行く時のエース達。誰もそう信じて疑う事はなく・・。



たーは来てすぐ守備の要となった。
体の強さならもっと強い奴は幾らでもいた。足が早い訳でも、堀川のような跳躍力もない。たーが選んだのは誰にも出来るけど誰にも真似できない事。



多分、長崎のCBでゲーム中に1番首を振っていたのはたーだと思う。首を振って周囲を確認して徹底的に備えた。何度も何度も首を振っていた。



ミスを恐れず声を上げ続けた。声を出し鼓舞すれば責任が生まれる。責任が生まれればミスは目立つ。たーはそれを恐れる事をしなかった。



ここ1番で相手とぶつかる事を恐れなかった。DFとして体が大きくない彼が突進してくる相手選手を体を張って止める事はどれほど怖い事だったろう。06年には左肘を脱臼し、翌年は肩を負傷した。09年には足の親指を骨折。誰にも出来るけど誰にも真似できない事を続け来た代償はしっかり体に残っていた。



2010年、たーの長崎での暮らしは5年目を迎えたが、気付けば82年組はほとんど居なくなっていた。戦術も守り方も、守備に対する考え方も新しくなった長崎。それはたーとは合わない物だった。出場機会は減り、ベンチ入りする事すら珍しくなる。かつて主将も務めた彼にとってそれは本当にツライ事だったろう。



それでもたーはたーだった。
練習試合で何度も首を振り、練習でも声を上げ、プライベートでも若い選手を鼓舞し、ベテランを支える。



12月2日の夜・・うつむく北川や空騒ぎの後座り込む宮尾に声をかけていたのはたーだった。竹にジョークを飛ばし、ずっとコンビを組んでいた加藤をちゃかし・・



「Jリーガーになりたかった。大学出て佐川(現SAGAWA)に入ったけど、上を、Jを目指したくて、税所に聞いて長崎に来て・・。結局Jリーガーになれませんでした。でも、俺は長崎以外に行く気も無いし、これからは教員を目指します。」



たーとSenji君は去年ある約束を交わしていた。
その約束をSenji君は懸命に果たそうと1年間必死だった。俺は約束の大きな力になれなかった。
「Senji君はね、この1年約束を果たす為に必死にやってたとさね。でも俺が意固地やけんね、力になりきれん時のあってね・・Senji君は約束は破ってないとさ。俺が変にこだわっただけで・・ホントごめんな。そこだけは判ってやって」



たーはそれを聞くと全部判っているから大丈夫という顔で
「果たせなかったとしたら俺の方です。1年前にほとんど八つ当たりみたいな事言ったのに、それでもSenjiさんは約束を交わしてくれた。そして、その約束が今年、糸みたいに細くなって切れそうになる気持ちをギリギリで切らせなかった・・その約束があったから俺は頑張れたと思います。」



Senji君の娘、美桜ちゃんはたーを本当に慕っている。
彼女にとってたーはずっとヒーローだった。
そして、ヒーローはヒーローらしく最後まで真っ正直にプレイして、堂々と舞台から降りる。次は教壇に立ってもっと多くの子供のヒーローになる為に。
Ta_2

  

Posted by 藤原 裕久(KLM)  at 17:14Comments(2)V・V長崎