2014年09月02日
宮田伴之取締役退任によせて
先日の富山戦を最後にⅤ・VAREN長崎で、
足掛け4年、代表取締役社長を務められた宮田伴之氏が退社された。
内田社長への引継ぎを終えての退社であり、一先ずはお疲れ様でしたと声をかけたい。
宮田前社長はチーム発足当時からクラブのボランティアをはじめ支援活動をされており、
特に社長を務められた2010年末からの4年間というのはクラブにとって最大の激動期だった。
僕も2010年でULTRAを卒団し、V・ファーレン長崎支援会の活動を本格化させた時期だったので
V・VARENを巡って色んな経験を一緒にさせていただいた。
生の感情をぶつけあった事もあるし、安堵して笑いあった事も数知れない。
東日本大震災、当時の後援会会長でクラブ最大の理解者の一人であった故松藤悟氏の逝去、
Jリーグ昇格断念、クラブライセンス、JFL優勝、J2昇格、佐野監督解任・・
全てがほんの少し前のことのようであり、ずっと昔の事のようであり・・。
今年も車に同乗させていただいて一緒にロアッソ熊本戦に行ったり、
つい先日も一緒に飲む機会に恵まれて昔話をしたりした。
宮田前社長は前任の小嶺忠敏元社長のような強烈なカリスマとエネルギーで引っ張るリーダーではなかった。
宮田前社長を知る大半の人が言うように調整型のリーダーと言えるだろう。
でも、僕が知る宮田前社長は調整型と言うより、調停型のリーダーだった。
決して果断ではないし、行動力に溢れ、卓越したアイデアや経営センスに恵まれているタイプではなかったが、
とにかく忍耐強く・・とても正直な人だった。
「どんなに頭にきても1晩寝れば忘れる(笑)」
と本人がよく言っていたように、この忍耐力と誠実さでクラブの内外をつなぎとめていたように思う。
一方で、忍耐や正直さはもどかしさと感じられる事もあったが、そこに救われたことも多かったのだろう。
思えば、クラブが出来て10年目・・色々変わった。
クラブのKINGだった原田武男はU-18の監督として現在S級ライセンスを受講している。
同じく長崎の心臓と呼ばれた田上渉は広報部所属で、
ずっと昔に「こんな情の厚いクラブが日本に一つくらいあっても良いじゃないですか」と
言った竹村栄哉と練習場に立っている。
岩本長崎と言われた岩本文昭は専務としてクラブに残り、
僕はULTRA-支援会を経てライターとしてクラブに関わっているし、
雄さんはULTRAの代表になり、Senji君はバスドラを叩き、
幼稚園だった美桜ちゃんは中学生になった。
一方で、スタッフも選手もサポーターも顔ぶれが変わり、新しい出会いもある。
居なくなった人、変わってしまった人、変わらない人、変わらない顔、新しい顔。
僕らはあと何度変化を経験するのだろう??
宮田前社長は既に新しい職場で働いている。
ウチの近所らしいので、近い内にご飯でも食べながら、また昔話したいものだ。
宮田さん、お疲れ様でした。大変お世話になりました。今後とも仲良くやりましょう(笑)
足掛け4年、代表取締役社長を務められた宮田伴之氏が退社された。
内田社長への引継ぎを終えての退社であり、一先ずはお疲れ様でしたと声をかけたい。
宮田前社長はチーム発足当時からクラブのボランティアをはじめ支援活動をされており、
特に社長を務められた2010年末からの4年間というのはクラブにとって最大の激動期だった。
僕も2010年でULTRAを卒団し、V・ファーレン長崎支援会の活動を本格化させた時期だったので
V・VARENを巡って色んな経験を一緒にさせていただいた。
生の感情をぶつけあった事もあるし、安堵して笑いあった事も数知れない。
東日本大震災、当時の後援会会長でクラブ最大の理解者の一人であった故松藤悟氏の逝去、
Jリーグ昇格断念、クラブライセンス、JFL優勝、J2昇格、佐野監督解任・・
全てがほんの少し前のことのようであり、ずっと昔の事のようであり・・。
今年も車に同乗させていただいて一緒にロアッソ熊本戦に行ったり、
つい先日も一緒に飲む機会に恵まれて昔話をしたりした。
宮田前社長は前任の小嶺忠敏元社長のような強烈なカリスマとエネルギーで引っ張るリーダーではなかった。
宮田前社長を知る大半の人が言うように調整型のリーダーと言えるだろう。
でも、僕が知る宮田前社長は調整型と言うより、調停型のリーダーだった。
決して果断ではないし、行動力に溢れ、卓越したアイデアや経営センスに恵まれているタイプではなかったが、
とにかく忍耐強く・・とても正直な人だった。
「どんなに頭にきても1晩寝れば忘れる(笑)」
と本人がよく言っていたように、この忍耐力と誠実さでクラブの内外をつなぎとめていたように思う。
一方で、忍耐や正直さはもどかしさと感じられる事もあったが、そこに救われたことも多かったのだろう。
思えば、クラブが出来て10年目・・色々変わった。
クラブのKINGだった原田武男はU-18の監督として現在S級ライセンスを受講している。
同じく長崎の心臓と呼ばれた田上渉は広報部所属で、
ずっと昔に「こんな情の厚いクラブが日本に一つくらいあっても良いじゃないですか」と
言った竹村栄哉と練習場に立っている。
岩本長崎と言われた岩本文昭は専務としてクラブに残り、
僕はULTRA-支援会を経てライターとしてクラブに関わっているし、
雄さんはULTRAの代表になり、Senji君はバスドラを叩き、
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一方で、スタッフも選手もサポーターも顔ぶれが変わり、新しい出会いもある。
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くだらないネタでも蘇ればフェニックス!
週末のファン感とかボーリングとか
デザインしてみた!~アクセス数が低い話題でも気にしません~
7・8月のことをアッサリと語る
(後編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~僕が見たかったもの~
(前編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~なぜ、ぼくはOB戦を開催しようとおもったか?~
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