2008年12月09日
ありがとう東川昌典、さらば東川サッカー②
東川さんが、ほとんど選手人事に関与無いまま指導に入った事は前回書いた通り。
最初の紅白戦の布陣は2ボランチの4-2-2-2。
サイドバックは右が飛鳥と堀川、左が梶原と竹村。隅田はFW。
1週間後には隅田は右サイドバックになり以後は固定。1週間で右サイドバックの人選を終えたという事だろう。自身の現役時代のポジションでもありサイドバックは最重要ポストだった。
ここからは練習試合に入り連敗。最初の入り方で失敗してしまったと思う。
この時期に目指す方向を明示して、それに沿った練習に入ればよかったのだが、選手数不足や怪我人、練習試合の連続で出来なった。ポゼッションサッカーを目指しつつ、選手を見極めも継続中、怪我人が多い為に応急処置的な布陣も時に敷く・・
試行錯誤しながら結果に囚われる・・これが選手や関係者に悪印象を抱かせた。
「指導者としてはかなり厳しい。」
これはある選手が当時実際に口にした言葉である。
東川さん自身も、この時期は環境が余裕を奪っていた。
午前練習を行った2時間後に午後練習を百花台で始め、午後練習終了3時間後には諫早でアマチュア組の指導を2時間。それから車で自宅へ帰り、合い間にスタッフとしての仕事や、練習メニューの作成を行う。本当に全てを長崎のサッカーに捧げていないと出来ない生活だった。
この余裕の無さが選手に対する対応や戦術の柔軟性を失わせてしまった。
選手にも色々なタイプがいる。それら全てに東川さんは正面から正攻法で対処し、それに合わないタイプの選手は反発し、醒め、時に正面衝突する。コンバートの多さと起用の判りにくさも拍車をかける。更に多くの選手の予想に反し、見極める前に恭平を主将にしたのも痛かった。名前で選ぶのか?元Jで選ぶのか?っと考えた選手もいた。
結局、この時期に必死にフォローしてまわっていた元気や武男がリーグ直前に副主将になり、コンバートされた選手の半数以上が元に戻る事でギリギリの崩壊を免れたが、シーズン前を効率的に活用できなったという思いは拭えない。
この時期にチームで監督のフォロー体制を整えておけば、もっと有効にシーズンオフを使えたと思う。本来のチーム作りの手順を無視するようなスケジュールと状況は、長崎に来たばかりの東川さんにも酷だった。
全てが未知なリーグに、個性も把握出来てない上にバラバラのコンディション、怪我人、合流もマチマチだった選手達を率いる。九州リーグを理解している前監督はこの時点でも未だに無役職。過去の経験値を引き継げたと言えない体制が、東川さんの足を引っ張ったのは間違いない。
開幕戦から第7節までの布陣は4-2-2-2。
リーグが開幕してもポゼッションサッカーは機能しなかった。
時折パスの細かい交換と連動する動きがあり、リーグを戦い続ければ機能するのではないかと期待させる事はあってもポゼッションサッカーは機能しなかった。
ポゼッションサッカーは細かいパス交換と、選手の運動量が求められる。
4-2-2-2はこの白いエリアをどう埋めるかが攻撃の肝だ。
通常はサイドハーフが切れ込むか、ボランチ交互に上がったり、下がったりして埋める。武男、元気はそれぞれ核となれる選手だがそれぞれ、プレイエリア、運動量に若干の難がある。それをカバー出来る戦術眼とセンスはあるが、彼らの分をカバーするハードワークの出来る選手がいる。ところが、当初のスタメンにはそのハードワーカーが欠けている。
ボランチの片方が攻撃参加するのに時間がかかる。
サッカーの攻撃に於いて、時間がかかる=相手の守備が整うだ。
更に大塚がライン際を突破するサイドアタッカーであった事もあり、このエリアを長崎は上手く攻略出来なかった。山形恭平のキープはアクセントになる筈がベースとなる基本の攻撃が殆ど無いのでリズムを悪くするだけだった。
白エリアをチームとして攻略出来ないから個人技に頼る。
ここをどう攻略するか明示出来てない、スタメンとフォーメーション、戦術とのミスマッチ。
更に暑さが増してくると運動量が落ち、ポゼッションサッカーは単に手数をかけるだけの横パスの応酬状態になっていた。下位には機能するが、中位以上が相手になると青色吐息のサッカー。
リーグが進むにつれ選手起用への不信が大きくなり始めていた。
ギリギリで皆がそれを抑えていたのは順位が大きく出遅れる事がなかった為である。
堅守と選手起用。東川サッカーの大きな長所と短所がこの二つだった。
(つづく)
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