2015年09月02日
7・8月のことをアッサリと語る
とりあえず久々に再開したブログ。
ザザザ~っとだけど7,8月のV・VARENの試合を振り返ってみる。
6月は苦しい試合が多かったが、7月、8月はしっかりと立て直してきたと思う。大きな転機となったのは、ザスパ戦からハッキリと打ち出したスタイルの修正。単に昔のやり方に戻すのではなく、原点である「走ること」や「球際」などの部分を再確認して、シンプルに役割を統一したことで選手個々の役割が更に明確になった。そして、この修正が軌道に乗るまでの期間をを支えたのが守備力だ。お陰で接戦を落とさない戦いが7月は特に出ている。8月も、コンディションや故障との戦いも増え、ベストメンバーを組めないゲームが続き、相手に主導権を握られる試合も増えたが、しっかりと乗り切った。
そして、先週の天皇杯1回戦で所属全選手が出場。
この試合は、力差があり、各選手がどういうテーマで試合に臨むかを注目した。「(ペース配分とか考えないで)やれる所までやろうという感じで、最初から全開で行きました」という北川、「トーナメントの初戦は本当に難しいので、そこを気をつけながら、周囲の選手の状態をチェックしてフォローしながら・・」という深井、4得点をあげてリーグ戦の1得点と合わせて8月は5得点となった洸一、ピンポイントでクロスを合わせた石神、安定感がズバぬけていた神崎、今後はボランチ中心の起用も濃厚な栄直などは、良い仕事をしたと思う。
一方の重工は、左SBとして攻撃を作る熊谷が、2ヶ月前の骨折から復帰したばかりな上に、病み上がりで動きが重かったこと、攻撃の核の1人である井福が1週間前の九州国体で腰を痛めていたことなどがあり、力を出し切れずに終わった。得点源であるFW植木もボールに絡めなかったのは悔しかったろう。その中では、サイドの江濱、ボランチの假屋は気を吐いたが・・。
個人的にはミスター重工・・いや、ミスター長崎社会人サッカーとでも言うべき安部真一が登場したのは嬉しかった。それも本職であるボランチ・・。ハイライトの一つだったと思う。
残るリーグ戦は12試合。6位以内を争う混戦は最後まで続くだろう。V・VARENは上位チームと比べると戦力が高いとは決していえない。だからこそ、チーム力がより重要になるし、しっかりと食い下がりながら、勝負所で総力戦に移れるタイミングを図っていきたい。そのタイミングの見極めが、プレーオフ圏内か、そうでないかの境目となるだろう。
ちなみに、補強については9月12日発売のJ2マガジンに少し書いたので、ここで書くと色々大人の事情的に困るので書かない。ビジネスだ、あざとい宣伝だと言われても、ここでは書かないのだ。明日をも知れぬ身のフリーライターにとって、サバイバル術なのだ。往年の人気時代劇「隠密同心」の心得の条的に言えば、
この仕事、来月もあると思わず
(我が命我が物と思わず)
原稿の中身、あくまで未公開にて、己にブログにも秘し、締め切りいかにても果たすべし
(武門の儀、あくまで陰にて、己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし)
別に死して屍拾う者なしではないが、これくらいに厳しいのだ。
あと、どうでも良い話だが、僕が亡くなる時には、案内には、毛筆で「死して屍拾うもの無し!」もしくは、秘孔を突かれてもいないのに「俺はもう死んでいる!」と書く予定である。家族はトンだ迷惑だろうが、一生のお願いだと頼むつもりだ・・という本当に読む人のことを考えない、どうでも良い話題で今日は終わる。このような変化を加えることもフリーライターのサバイバルには必要なのだ。
ザザザ~っとだけど7,8月のV・VARENの試合を振り返ってみる。
6月は苦しい試合が多かったが、7月、8月はしっかりと立て直してきたと思う。大きな転機となったのは、ザスパ戦からハッキリと打ち出したスタイルの修正。単に昔のやり方に戻すのではなく、原点である「走ること」や「球際」などの部分を再確認して、シンプルに役割を統一したことで選手個々の役割が更に明確になった。そして、この修正が軌道に乗るまでの期間をを支えたのが守備力だ。お陰で接戦を落とさない戦いが7月は特に出ている。8月も、コンディションや故障との戦いも増え、ベストメンバーを組めないゲームが続き、相手に主導権を握られる試合も増えたが、しっかりと乗り切った。
そして、先週の天皇杯1回戦で所属全選手が出場。
この試合は、力差があり、各選手がどういうテーマで試合に臨むかを注目した。「(ペース配分とか考えないで)やれる所までやろうという感じで、最初から全開で行きました」という北川、「トーナメントの初戦は本当に難しいので、そこを気をつけながら、周囲の選手の状態をチェックしてフォローしながら・・」という深井、4得点をあげてリーグ戦の1得点と合わせて8月は5得点となった洸一、ピンポイントでクロスを合わせた石神、安定感がズバぬけていた神崎、今後はボランチ中心の起用も濃厚な栄直などは、良い仕事をしたと思う。
一方の重工は、左SBとして攻撃を作る熊谷が、2ヶ月前の骨折から復帰したばかりな上に、病み上がりで動きが重かったこと、攻撃の核の1人である井福が1週間前の九州国体で腰を痛めていたことなどがあり、力を出し切れずに終わった。得点源であるFW植木もボールに絡めなかったのは悔しかったろう。その中では、サイドの江濱、ボランチの假屋は気を吐いたが・・。
個人的にはミスター重工・・いや、ミスター長崎社会人サッカーとでも言うべき安部真一が登場したのは嬉しかった。それも本職であるボランチ・・。ハイライトの一つだったと思う。
残るリーグ戦は12試合。6位以内を争う混戦は最後まで続くだろう。V・VARENは上位チームと比べると戦力が高いとは決していえない。だからこそ、チーム力がより重要になるし、しっかりと食い下がりながら、勝負所で総力戦に移れるタイミングを図っていきたい。そのタイミングの見極めが、プレーオフ圏内か、そうでないかの境目となるだろう。
ちなみに、補強については9月12日発売のJ2マガジンに少し書いたので、ここで書くと色々大人の事情的に困るので書かない。ビジネスだ、あざとい宣伝だと言われても、ここでは書かないのだ。明日をも知れぬ身のフリーライターにとって、サバイバル術なのだ。往年の人気時代劇「隠密同心」の心得の条的に言えば、
この仕事、来月もあると思わず
(我が命我が物と思わず)
原稿の中身、あくまで未公開にて、己にブログにも秘し、締め切りいかにても果たすべし
(武門の儀、あくまで陰にて、己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし)
別に死して屍拾う者なしではないが、これくらいに厳しいのだ。
あと、どうでも良い話だが、僕が亡くなる時には、案内には、毛筆で「死して屍拾うもの無し!」もしくは、秘孔を突かれてもいないのに「俺はもう死んでいる!」と書く予定である。家族はトンだ迷惑だろうが、一生のお願いだと頼むつもりだ・・という本当に読む人のことを考えない、どうでも良い話題で今日は終わる。このような変化を加えることもフリーライターのサバイバルには必要なのだ。
2015年08月31日
久々に書いてみよう
先日、スタジアムで「もうブログは書かないのですか?」と訊ねられた。前回、ブログを書いたのは7月8日。すでに9月なので約2ヶ月前だ。7月と言えば、J2はちょうどリーグ折り返しの最中であり、世間的には
東京五輪 エンブレム発表。
ピース・又吉 第153回 芥川賞・直木賞 受賞。
アホの坂田 母校甲子園出場で大興奮。
などがニュースとなった頃だ。
最後のニュースを知ってる人は少ないかもしれないが、表現規制が厳しい現在にあって、新聞の見出しに大きく”アホ”と書くことが許される、坂田利夫師匠への僕なりのリスペクトだと思ってもらいたい。
これはいかん。
確かに書かなさ過ぎだ。ベルセルクやHunter×Hunter、ガラスの仮面のような名作漫画とは違うのだ。これでは誰も見向きもしてくれない。デンジャラスだ。ハイリスクだ。これでは、夏の淡い恋のように、あっと言う間に忘れられてしまう。いや、もうきっと忘れられているに違いない。アバンチュールは終わったのだ。これはいかん。と言う事でチョコチョコとブログも書いていこうと思う。
ちなみに、この2ヶ月ほどブログを書かなかった理由は大して無い。あえて言うならば、光陰、矢の如し・・となるだろう。7月4日にV・VAREN長崎メモリアルOB戦が終わってから、今日までV・VARENの公式戦が10試合。公式マッチデイプログラムやJ2マガジンの原稿書き、V・VAREN長崎U-15上海遠征への帯同取材、第1回VREDE CUP、クラブの女性広報が髪を切る、アホの坂田 母校甲子園出場で大興奮の記事に僕が大興奮など色々あったのだ。会社の仕事も忙しい時期だったし、嬉しいことに、書き物も色んな依頼がグッと増えたし・・。
あと、この期間はそういう忙しい中で、時間をやりくりするためのスキルも身についた。特に身につけて活躍したスキルが「座り寝」で、自宅のベッドで寝るにも関わらず、ベッドの上で体育座りをしながら寝ることで、短時間でも寝た気分になれるというものだ。時間効率化のレベルはグンと上げ、人間らしい暮らしのレベルを1ランクダウンさせる高度なスキルだ。ただ、毎日このスキルを駆使していると、「眠れないほどの悩みがあるなら、相談して」と家族からサプライズな言葉をいただくこともあるので注意したい。
こういう話題もおいおい書いていこうと思う。特に7、8月のチームやクラブの話題、上海遠征やらVREDE CUPの話題、でも、書かなかったとしても、読む人は大らかな心でいてほしい。全ては光陰、矢の如し・・全部嘘さ、そんなもんさ、夏の恋は幻♪と爆風スランプも歌うように・・全ては幻なのだから。
東京五輪 エンブレム発表。
ピース・又吉 第153回 芥川賞・直木賞 受賞。
アホの坂田 母校甲子園出場で大興奮。
などがニュースとなった頃だ。
最後のニュースを知ってる人は少ないかもしれないが、表現規制が厳しい現在にあって、新聞の見出しに大きく”アホ”と書くことが許される、坂田利夫師匠への僕なりのリスペクトだと思ってもらいたい。
これはいかん。
確かに書かなさ過ぎだ。ベルセルクやHunter×Hunter、ガラスの仮面のような名作漫画とは違うのだ。これでは誰も見向きもしてくれない。デンジャラスだ。ハイリスクだ。これでは、夏の淡い恋のように、あっと言う間に忘れられてしまう。いや、もうきっと忘れられているに違いない。アバンチュールは終わったのだ。これはいかん。と言う事でチョコチョコとブログも書いていこうと思う。
ちなみに、この2ヶ月ほどブログを書かなかった理由は大して無い。あえて言うならば、光陰、矢の如し・・となるだろう。7月4日にV・VAREN長崎メモリアルOB戦が終わってから、今日までV・VARENの公式戦が10試合。公式マッチデイプログラムやJ2マガジンの原稿書き、V・VAREN長崎U-15上海遠征への帯同取材、第1回VREDE CUP、クラブの女性広報が髪を切る、アホの坂田 母校甲子園出場で大興奮の記事に僕が大興奮など色々あったのだ。会社の仕事も忙しい時期だったし、嬉しいことに、書き物も色んな依頼がグッと増えたし・・。
あと、この期間はそういう忙しい中で、時間をやりくりするためのスキルも身についた。特に身につけて活躍したスキルが「座り寝」で、自宅のベッドで寝るにも関わらず、ベッドの上で体育座りをしながら寝ることで、短時間でも寝た気分になれるというものだ。時間効率化のレベルはグンと上げ、人間らしい暮らしのレベルを1ランクダウンさせる高度なスキルだ。ただ、毎日このスキルを駆使していると、「眠れないほどの悩みがあるなら、相談して」と家族からサプライズな言葉をいただくこともあるので注意したい。
こういう話題もおいおい書いていこうと思う。特に7、8月のチームやクラブの話題、上海遠征やらVREDE CUPの話題、でも、書かなかったとしても、読む人は大らかな心でいてほしい。全ては光陰、矢の如し・・全部嘘さ、そんなもんさ、夏の恋は幻♪と爆風スランプも歌うように・・全ては幻なのだから。
2015年07月08日
(後編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~僕が見たかったもの~
7月4日、OB戦のヘルプメンバーは11:00にスタジアムに集合し、それぞれ運営に入る。OB達が次々と集まり、ロッカーの中は一気に賑やかになっていく。「スゲェなぁ」県総を見ながら川崎元気が呟き、スタメンをホワイトボードに書くと、「俺、スタメンで出たいです(笑)」と松橋君が言ってくる。入場時の入り口はキッズエスコートをするOBの子供たちと家族で一杯だ。
V・ファーレン長崎の入場の時に流れるのは「龍馬伝」のテーマなのだが、このOB戦については、川田金太郎さんに頼んでJリーグのアンセムにしてもらった。龍馬伝が入場曲では無かった時代の選手も多いし、Jリーガーを目指しながら、辿り着けなかった選手たちを、一番スタンダードなJリーグのイメージで迎えたかったからだ。
試合が始まりベンチで、少しだけ感慨に浸る。辛いことが多かった筈なのに、この時思い出すのは楽しかったことばかり・・。すぐ横で「藤原さん、俺いけるっすよ!」とアピールする選手がいる。ゼーゼー呼吸しながら「まだ大丈夫です、いけます」と言い張る選手がいる。原田武男はベンチに下がると素早く着替えてユースの選手として出場する・・何もかもが夢のように感じる。
中村祐哉君が「左サイドで出たい」、税所君が「FWでも出たい」、杉山君が「まだまだいけます」、藤井君が「俺出ます」とピッチへ走る。・・気付けばピッチに12人いた。展開は0-1。「よし、もう1人入ろうか?いや、2人同時に。」。それから3分ごとに2人が入り、残り4分になった時、「ベンチ全員行こう!GKも!マネージャーも」。皆がベンチを出てからユースのベンチへ行き、子供たちに「ごめんね」と言いに行くと寺峰アカデミーダイレクターは笑って「いや、これが良いんですよ」と言ってくれた。
試合が終わり、選手と握手やタッチを交わす。皆が口々に「楽しかった」と言ってくれる。写真撮影の時はユースもOBもOBの家族も全員一緒だ。雨で濡れているのにみんなが笑っている。OBと握手し、ハイタッチし・・ぼくらはようやく夢に区切りをつけた。その後、しばしライターに戻ってV・VAREN長崎vs.大宮アルディージャを取材し、試合後は翌日の感謝祭の準備に長崎市へ移動し・・ユニフォームやトロフィー、ポスター設営。
翌日の感謝祭には、昔を知る人、昔を知りたい人が揃っている。
OB戦の準備と平行して集めてきたOBからのメッセージや写真が流れ・・OB同士が談笑している。少しでも昔を知ってもらえれば、好きになってもらえれば・・嬉しい。感謝最後に、近くでOB達と少し食事するので一緒にどうですか?と誘われたが、感謝祭の撤収準備もあるので遠慮する。その内にいつか・・だ。
メモリアルOB戦は、OBとクラブのお陰で開催できたが、もっと自分が大きくなれていれば、もっと多くの選手や家族、色んなこともできたろうが、今の自分のほぼ全部を出し切ったOB戦で、宝物で、後悔はない。大変だったかと問われれば、筆舌に尽くしがたいほどだったと答える(笑)。でも、OB達の顔や感謝祭の雰囲気を見ていると・・「これが見たくてやったんだ」と思えた。やって良かったと心底思った。まだ自分はとても小さい存在で、辿り着きたいレベルへ達していないことも分かって、また上を目指す気持ちが強くなった。
V・ファーレン長崎10周年メモリアルOB戦・・決して有名な選手ばかりじゃないけれど、自分たちにとっては世界一のOB戦。全部が終わって、僕が免罪符だと思って握り締めていたものは、本当は自分の夢だったのかもしれないと思った。誰かに許して欲しかったんじゃなく、単に大好きな物を見たかったんだ。 やっぱり・・V・ファーレン長崎は僕の人生をいつだって燃え立たせて、サッカーはいつも僕を幸せにしてくれる。
V・ファーレン長崎の入場の時に流れるのは「龍馬伝」のテーマなのだが、このOB戦については、川田金太郎さんに頼んでJリーグのアンセムにしてもらった。龍馬伝が入場曲では無かった時代の選手も多いし、Jリーガーを目指しながら、辿り着けなかった選手たちを、一番スタンダードなJリーグのイメージで迎えたかったからだ。
試合が始まりベンチで、少しだけ感慨に浸る。辛いことが多かった筈なのに、この時思い出すのは楽しかったことばかり・・。すぐ横で「藤原さん、俺いけるっすよ!」とアピールする選手がいる。ゼーゼー呼吸しながら「まだ大丈夫です、いけます」と言い張る選手がいる。原田武男はベンチに下がると素早く着替えてユースの選手として出場する・・何もかもが夢のように感じる。
中村祐哉君が「左サイドで出たい」、税所君が「FWでも出たい」、杉山君が「まだまだいけます」、藤井君が「俺出ます」とピッチへ走る。・・気付けばピッチに12人いた。展開は0-1。「よし、もう1人入ろうか?いや、2人同時に。」。それから3分ごとに2人が入り、残り4分になった時、「ベンチ全員行こう!GKも!マネージャーも」。皆がベンチを出てからユースのベンチへ行き、子供たちに「ごめんね」と言いに行くと寺峰アカデミーダイレクターは笑って「いや、これが良いんですよ」と言ってくれた。
試合が終わり、選手と握手やタッチを交わす。皆が口々に「楽しかった」と言ってくれる。写真撮影の時はユースもOBもOBの家族も全員一緒だ。雨で濡れているのにみんなが笑っている。OBと握手し、ハイタッチし・・ぼくらはようやく夢に区切りをつけた。その後、しばしライターに戻ってV・VAREN長崎vs.大宮アルディージャを取材し、試合後は翌日の感謝祭の準備に長崎市へ移動し・・ユニフォームやトロフィー、ポスター設営。
翌日の感謝祭には、昔を知る人、昔を知りたい人が揃っている。
OB戦の準備と平行して集めてきたOBからのメッセージや写真が流れ・・OB同士が談笑している。少しでも昔を知ってもらえれば、好きになってもらえれば・・嬉しい。感謝最後に、近くでOB達と少し食事するので一緒にどうですか?と誘われたが、感謝祭の撤収準備もあるので遠慮する。その内にいつか・・だ。
メモリアルOB戦は、OBとクラブのお陰で開催できたが、もっと自分が大きくなれていれば、もっと多くの選手や家族、色んなこともできたろうが、今の自分のほぼ全部を出し切ったOB戦で、宝物で、後悔はない。大変だったかと問われれば、筆舌に尽くしがたいほどだったと答える(笑)。でも、OB達の顔や感謝祭の雰囲気を見ていると・・「これが見たくてやったんだ」と思えた。やって良かったと心底思った。まだ自分はとても小さい存在で、辿り着きたいレベルへ達していないことも分かって、また上を目指す気持ちが強くなった。
V・ファーレン長崎10周年メモリアルOB戦・・決して有名な選手ばかりじゃないけれど、自分たちにとっては世界一のOB戦。全部が終わって、僕が免罪符だと思って握り締めていたものは、本当は自分の夢だったのかもしれないと思った。誰かに許して欲しかったんじゃなく、単に大好きな物を見たかったんだ。 やっぱり・・V・ファーレン長崎は僕の人生をいつだって燃え立たせて、サッカーはいつも僕を幸せにしてくれる。
2015年07月07日
(前編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~なぜ、ぼくはOB戦を開催しようとおもったか?~
オフシーズンに入る時はファンにとって憂鬱なものだ。あの選手が去る、この選手が引退する・・幸福に引退できる選手なんて一握りなのはわかっているが、そんなニュースに一喜一憂する。それはV・ファーレン長崎でも同様だ。だが、特にJリーグ昇格するまでは、殊更に悲しい別れが多かった。戦力外ということに選手は確かに傷つくが、それ以上にツライのは誠意を感じない時だと言う。
笑って会いにきたのに、言葉を一言交わした瞬間に号泣した選手もいた。「悔しい、悔しい・・」睨みつけるような顔で、涙をポロポロこぼしながら何度も呟く選手もいた。抱き合って泣いた選手もいた。次の進路を語る最中に言葉を詰まらせる選手もいた。そうやって去って行く選手達に、僕が最初にかける言葉は決まっていた。
「ごめんね、ちゃんと送り出せんで・・」。
今は思う、誰かが悪かったんじゃない。
誰もがクラブを存続させることに必死で、振り返ることも、立ち止まることもできなかっただけなのだと。非常でも進まねばならない時もあったのだと。それでも、謝ることしかできなかった当時の僕は彼らにいつも同じ約束をした。「いつか必ずOB戦を開催するから。その時に必ず呼ぶから。笑って長崎にもう一回来てもらうから・・」そう言わないと、自分の弱さに耐えられなかった。OB戦・・それが僕の免罪符になった。
2010年のシーズン後に行った、退団選手たちが集まって自主的にゲームを体感し、や2011年にクラブが開催した「有明SC vs.国見FC」を見て、2014年に有光君、松橋君の引退ゲームの企画を練り、協力したことで、自分の目指すOB戦のイメージは徐々に出来ていった。
「10周年のOB戦をやりたい。実行委員会を作って、協賛金も集めて、全力で協力して、一銭もいらないから。」
OB戦について考えることが増えた2014年の夏過ぎにある関係者に話をした。「やりましょうよ。実行委員会形式がやりやすいでしょうね。過去のことはあなたが一番詳しいから任せますよ。」やっとOB戦が動き出した。
チームやクラブの負担にならずにOB戦を開催するために、最初は戸石の練習場で2月開催を予定したが、会場や日時は中々確定できず、5月開催やオフの開催も考えねばならなかった。4月にクラブから7月4日を10周年のメモリアルデーにしたいという話をもらい、開催場所が県総に決まった。実行委員会は、選手を集め、連絡を取り、小口協賛金を集め、OB戦当日の運営をボランティアとして手伝う・・その他色んな仕事が決る。基本にしたのはOB選手の旅費交通費だけでも全額負担するというもの。そして、アマチュアもプロもJリーグの経験ある無しも関係なく、満遍なく全ての年代の選手を集めること。そして、他クラブでプレー中の選手はシーズン中のために避ける事。
実行委員会には知り合いの名前が一つでもあれば、OBの安心感は増すと思い、色んな人に入ってもらった。100名を超えるOBへの連絡は基本的にTeam V-istで行い、徐々に7/4の参加OBは決まっていった。タキシードユニフォームの話を聞いたのは5月だったと思う。6月からは時間との戦いで、100名を超えるOBに何度も連絡を取り、OB個々の事情に配慮してクラブとの仲介役を務めたりして、文字通り寝る間もない日々に突入した。また、7月5日の感謝祭の展示物の手配や分類、OB戦に参加できない選手へコメントは写真を出してくれるように各所にお願いしたりする。直前まで参加予定の選手が不参加になったり、急遽参加が決まった選手もいた。前者は梶原公君や福田涼君、後者は森本晃一郎君や佐藤陽介君。声をかけた全ての選手が来たがったことが嬉しかった。

正直、この頃はフラフラで人生史上最高にハードな生活だったと思う。
そして、OB戦はついに当日を迎えた。
(つづく)
笑って会いにきたのに、言葉を一言交わした瞬間に号泣した選手もいた。「悔しい、悔しい・・」睨みつけるような顔で、涙をポロポロこぼしながら何度も呟く選手もいた。抱き合って泣いた選手もいた。次の進路を語る最中に言葉を詰まらせる選手もいた。そうやって去って行く選手達に、僕が最初にかける言葉は決まっていた。
「ごめんね、ちゃんと送り出せんで・・」。
今は思う、誰かが悪かったんじゃない。
誰もがクラブを存続させることに必死で、振り返ることも、立ち止まることもできなかっただけなのだと。非常でも進まねばならない時もあったのだと。それでも、謝ることしかできなかった当時の僕は彼らにいつも同じ約束をした。「いつか必ずOB戦を開催するから。その時に必ず呼ぶから。笑って長崎にもう一回来てもらうから・・」そう言わないと、自分の弱さに耐えられなかった。OB戦・・それが僕の免罪符になった。
2010年のシーズン後に行った、退団選手たちが集まって自主的にゲームを体感し、や2011年にクラブが開催した「有明SC vs.国見FC」を見て、2014年に有光君、松橋君の引退ゲームの企画を練り、協力したことで、自分の目指すOB戦のイメージは徐々に出来ていった。
「10周年のOB戦をやりたい。実行委員会を作って、協賛金も集めて、全力で協力して、一銭もいらないから。」
OB戦について考えることが増えた2014年の夏過ぎにある関係者に話をした。「やりましょうよ。実行委員会形式がやりやすいでしょうね。過去のことはあなたが一番詳しいから任せますよ。」やっとOB戦が動き出した。
チームやクラブの負担にならずにOB戦を開催するために、最初は戸石の練習場で2月開催を予定したが、会場や日時は中々確定できず、5月開催やオフの開催も考えねばならなかった。4月にクラブから7月4日を10周年のメモリアルデーにしたいという話をもらい、開催場所が県総に決まった。実行委員会は、選手を集め、連絡を取り、小口協賛金を集め、OB戦当日の運営をボランティアとして手伝う・・その他色んな仕事が決る。基本にしたのはOB選手の旅費交通費だけでも全額負担するというもの。そして、アマチュアもプロもJリーグの経験ある無しも関係なく、満遍なく全ての年代の選手を集めること。そして、他クラブでプレー中の選手はシーズン中のために避ける事。
実行委員会には知り合いの名前が一つでもあれば、OBの安心感は増すと思い、色んな人に入ってもらった。100名を超えるOBへの連絡は基本的にTeam V-istで行い、徐々に7/4の参加OBは決まっていった。タキシードユニフォームの話を聞いたのは5月だったと思う。6月からは時間との戦いで、100名を超えるOBに何度も連絡を取り、OB個々の事情に配慮してクラブとの仲介役を務めたりして、文字通り寝る間もない日々に突入した。また、7月5日の感謝祭の展示物の手配や分類、OB戦に参加できない選手へコメントは写真を出してくれるように各所にお願いしたりする。直前まで参加予定の選手が不参加になったり、急遽参加が決まった選手もいた。前者は梶原公君や福田涼君、後者は森本晃一郎君や佐藤陽介君。声をかけた全ての選手が来たがったことが嬉しかった。
正直、この頃はフラフラで人生史上最高にハードな生活だったと思う。
そして、OB戦はついに当日を迎えた。
(つづく)
2015年06月15日
2015年 J2第18節 長崎vs.磐田 ~~実を取るか?実はなるか?~
「先制ゴールを奪えましたが、攻守共に主導権を握ることができなかった。長崎の戦い方が徹底していたので、ボールをつなげず、連動してボールを奪いに行けない時間が80分くらい続いてしまった(ジュビロ磐田 名波監督)」。この言葉が試合内容の大半を示していると思う。

前半4分、ゴール斜め左の約30m弱の場所からのゴールに向かってくるFKを、GK大久保がこぼし、そのまま2試合連続得点中の櫻内に決められ失点。第12節の出場以来、無失点こそ無いが大きなミスが無かった大久保にとって痛恨のプレーと言って良い。この後は、試合を通じてビッグセーブで決定機を防ぎ、失点の影響を最小限に留めたが、GKは前に出た以上は絶対にボールを止めなければいけない。本人が最も悔しいことだろう。
この日の長崎はシステムを変更し、2列目の小林を黒木がケア。磐田のベースである宮崎、上田、小林のトライアングルを抑えに行く。攻撃では攻め残るアダイウトンや、前に上がってきたSBの裏をついてペースを掴んでいく。相手の裏を突く攻めは効果的で、磐田は64分にはアダイウトンを、82分には小林が交代。アダイウトンの出場時間64分で交代というのは彼のJリーグ出場時間で最短だ。更に長崎は、前半から何度か決定機を作っており、シュートがバーを叩くシーンも多かった。運不運で勝負事を語りたくはないが、それに左右された面は少なくない。
「普段のミーティングでは試合のキーワードを話すんですが、今日は、選手に、君たちでキーワードを作りなさいと言いました。その中で、何が大事かということを把握しながら、選手たちはよくプレーしたと思います」
「戦術的にもシステムを変えて相手にプレッシャーを与えることができたと思います。柔軟さをみせてくれた」
「今日の試合は、リーグ戦を戦う上で我々にとって得るものが大きい試合だった」
高木監督のコメントと同じように感じたサポーターも多かったのではないだろうか?
「磐田相手でもあれだけやれたことは、今後を戦う自信になるのでは?」
との問いに選手たちは「それだけやれたからこそ、勝てなくて悔しい」と答えた。代表戦で主力クラスが2人欠場しても、しっかりと戦い、試合を終えて選手たちが次々に「また明日、練習があるんで、そこで高めていくしかない」と口にする。J2で負けないチームからJ1昇格を本気で取りにいくチームへ・・まだトレーニングも試合も続く。
名誉や名声などうわべの体裁よりも、実質的な利益を得ることを選ぶほうが、賢明であるということを「名を捨てて実を取る」と言う。この試合で得た経験が実となるか・・その実が力へと変わるかどうか、はこれから次第だ。だが、この実が力になった時、それは実力と呼ばれるはずだ。

前半4分、ゴール斜め左の約30m弱の場所からのゴールに向かってくるFKを、GK大久保がこぼし、そのまま2試合連続得点中の櫻内に決められ失点。第12節の出場以来、無失点こそ無いが大きなミスが無かった大久保にとって痛恨のプレーと言って良い。この後は、試合を通じてビッグセーブで決定機を防ぎ、失点の影響を最小限に留めたが、GKは前に出た以上は絶対にボールを止めなければいけない。本人が最も悔しいことだろう。
この日の長崎はシステムを変更し、2列目の小林を黒木がケア。磐田のベースである宮崎、上田、小林のトライアングルを抑えに行く。攻撃では攻め残るアダイウトンや、前に上がってきたSBの裏をついてペースを掴んでいく。相手の裏を突く攻めは効果的で、磐田は64分にはアダイウトンを、82分には小林が交代。アダイウトンの出場時間64分で交代というのは彼のJリーグ出場時間で最短だ。更に長崎は、前半から何度か決定機を作っており、シュートがバーを叩くシーンも多かった。運不運で勝負事を語りたくはないが、それに左右された面は少なくない。
「普段のミーティングでは試合のキーワードを話すんですが、今日は、選手に、君たちでキーワードを作りなさいと言いました。その中で、何が大事かということを把握しながら、選手たちはよくプレーしたと思います」
「戦術的にもシステムを変えて相手にプレッシャーを与えることができたと思います。柔軟さをみせてくれた」
「今日の試合は、リーグ戦を戦う上で我々にとって得るものが大きい試合だった」
高木監督のコメントと同じように感じたサポーターも多かったのではないだろうか?
「磐田相手でもあれだけやれたことは、今後を戦う自信になるのでは?」
との問いに選手たちは「それだけやれたからこそ、勝てなくて悔しい」と答えた。代表戦で主力クラスが2人欠場しても、しっかりと戦い、試合を終えて選手たちが次々に「また明日、練習があるんで、そこで高めていくしかない」と口にする。J2で負けないチームからJ1昇格を本気で取りにいくチームへ・・まだトレーニングも試合も続く。
名誉や名声などうわべの体裁よりも、実質的な利益を得ることを選ぶほうが、賢明であるということを「名を捨てて実を取る」と言う。この試合で得た経験が実となるか・・その実が力へと変わるかどうか、はこれから次第だ。だが、この実が力になった時、それは実力と呼ばれるはずだ。