2011年02月09日
スパイクを脱ぐ男⑤ 竹村栄哉
竹の現役生活は中々に波瀾万丈だ。
高校卒業後に旧JFLのフジタ(現湘南ベルマーレ)入り。(現在のJFLは新JFL)Jが開幕するとチームはベルマーレに変わり竹もJリーガーになった。平塚-水戸・・そして99年にJ1昇格を悲願とするJ2大分へ。そして99年の大分は悲劇として名高い。最終節、勝てばJ1昇格のホームゲーム。1-1から相手が退場者を出した。だが大分は1点を奪えず引き分け昇格失敗。この試合でFWを務めていたのが竹だ。
その後、大分は3年連続でJ1昇格に失敗し、竹は2002年大宮へチームを移す。そしてその年、大分はJ1昇格を達成。昇格決定試合の相手は大宮。逆側のピッチにいる竹はそれをどんな気持ちで眺めていたのだろう。2004年には鳥栖へ移籍しMVP級の活躍を見せ、06年に解雇・・そしてトライアウトへ。
フジタから数えて7チーム目が長崎だ。長崎がまさに混迷に入っていくその時に竹はやってきた。
ベテランでありながら偉ぶらず、手を抜かない竹が信用を得るのに時間はかからなかった。若い選手の愚痴を聞きアドバイスを送る。そして選手としての凄さは08年に集約される。当時のコンバートが行われる中で、竹は新境地を開拓してみせた。それまでの繊細なボールタッチとスピードが武器のアタッカーから、ハードワークが信条のタフなボランチへ。この年、JFL昇格の主力としてシーズンを駆け抜けた。
翌年、竹はチーム事情から左SBへコンバートされ、そこでも充分に適応を見せた。だが2009年8月9日・・後ろから当たられた竹は倒れて立ち上がらなかった。
「怪我したのが判ったんで・・その瞬間に引退ってのがよぎりました」
左膝十字靱帯にメスが入る。
阿部ちゃんが当時、ブログで書いているが靱帯は1度切れると昔のような強度は戻らない。強度不足をカバーするには筋力が必要となる。だが、怪我の前からトレーニングは積んでいるサッカー選手だ。それに筋肉をつけ過ぎればスピードは落ちる。スピードを落とさず、今までより筋力をつけるのは並大抵の事ではない。
当時、竹の負傷についてブログに書いた事がある。そのすぐ後に練習場で会った竹はこう言った。
「ブログ読みましたよ。あそこに書いてある通りですよ。俺はもう長崎の竹村栄哉ですよ。どこにも行かない。」
怪我からの復帰には1年近くを擁した。帰ってきた時、多くのファンや選手がブログやコメントで竹の復帰を喜び讃えている。それがそのまま竹の存在価値の大きさなのだろう。
去年の12月2日に竹は解雇通告を受けた。その晩に逢ったが竹は一言も怪我を言い訳に使わなかった。思えば7チームを渡り歩き、J1、J2、旧JFL、新JFL、地域リーグ・・5つのカテゴリで戦っている。プロ、フットボール・・色んな経験をしている。泣き言なんて言わず笑える強さが竹にはある。
「どういう形であれ長崎に残りたい!俺は色んなチームでやってきて、最後にここに来て、チームとサポーターの距離や関係・・皆の熱さとか見て、こんなチームが日本に一個くらいあっても良いじゃないかって思うんですよ。だから、俺は長崎から出ていくなんて考えてないし、絶対に残りますよ。」
20年に及ぶ現役サッカー生活。終わりを突きつけられても真っ先に口にしたのは選手としての未練ではなく、長崎残留宣言。
竹に対して酷かもしれないが、それを聞いた時に本当に嬉しかった。
竹は今、フロントにいる。
1月に偶然会った時、「まだ名刺もできてないんですよ」そう言って竹は笑った。
竹は長崎の為にまだ走っている・・スパイクを革靴に履き変えて。
追伸
2月11・12日に長崎県美術館でV・ファーレン長崎の7周年を振り返る記念展”初心回帰”をやる。両日共に10:00~11:00、竹村栄哉来場。
週末のファン感とかボーリングとか
デザインしてみた!~アクセス数が低い話題でも気にしません~
7・8月のことをアッサリと語る
(後編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~僕が見たかったもの~
(前編)V・ファーレン長崎メモリアルOB戦~なぜ、ぼくはOB戦を開催しようとおもったか?~
思い入れだけの文章は表現に値しない。日記帳で充分。
ひと皮むけた発信を待ってます。
いつも素敵なお話を、ありがとうございます!
スパイクを脱ぐ男。毎回涙なしでは読めません。
竹さんの長崎への思い、素敵ですね!
長崎へ残ってくれてありがとう。
相変わらず変な批判する人がいますね。
勘違いしてる人はほうっておいて、このシリーズまた続けて下さい。